本当に大切なもの、これだけは大事にしたいと思うものをお持ちですか?
私はあります。いや、かつてありました。
今はもう、それを失ってしまった残念な人、田中です。(最近お前は人なのかすら怪しいと言われています。思い当たるところ多々あり)
人間の感情は、プラスよりもマイナスの出来事に対して強く反応するようにできています。
これは生きていくためにどうしてもあらがえないものです。
人間も動物であるので、種の保存、種の存続が第一です。一個体の楽しいこと、嬉しいことよりも、種を残すためにはどうしても「危機」というものを避けるようプログラミングされています。ゆえにその「危機」=マイナスの感情の方がどうしても優先されてしまうのです。ああ、悲しき動物のさだめ。
このマイナスの感情が大きく優先されるのは、例えばネットやSNS界隈で起きがちな炎上というものですね。良い行いではなく、悪い行いに対して人間は反応が鋭く、それを利用した炎上商法なるものまで存在する世界です。
まあ最近は炎上商法よりも共感ビジネスの方が儲かるんですけどね。その話はまたそのうち。
話を戻しますが、人は「持っている幸せ」よりも、「失った悲しみ」に支配されがちです。しかしこれは、人間という思考ができる生き物でありながら、動物的な感性を優先している野蛮なもの、とも考えられるのではないでしょうか。つまり、考えることを放棄している。
失った、悲しい。もう生きていられない。そういった負の連鎖に身を任せてしまうこと。これは考えることを放棄し、単なるモンキー野郎に成り下がってると私はみなします。
なぜ、今まで持っていた「幸せ」を、与えられていたものを無かったものにしてしまうのでしょうか。
私の好きな映画のひとつがラストサムライで、こちらでも同じように、失ったことより、生き様を語ろうとするラストシーンが描かれています。
死に際ではなく、生き様。喪失より、与えられていた喜び。
真夏が通り過ぎ、四十九日が明け、私にとっての唯一の守るべき「家族」は、もういません。
それでも時間が経てば、腹は減るし、眠りにつく。与えられた幸せを感じながら、与えてくれた幸せに嘘がないよう、私は生きなければなりません。
2025年は、自分の人生の中でトップクラスに大きな出来事が起き続けています。
若いのに先に死にかける部下がいたりその他諸々。
少なくとも、自分を大切にしようと思う、今日この頃でございました。