あなたのまわりに物知りな人はいますか?
私にはいます。多種多様なカテゴリーで。
どうも、田中です。
ひと昔前までは、朝の食卓でニュースを流し見しながら1日が始まるのが当たり前だと思っていました。当たり前ってのは育った環境なので、小さい頃の家の習慣がそのまま自分に身についていただけですが。しかしながら、半年前にエアコン水漏れから下にあったTVが壊れ、そのままTVのない「当たり前の」生活に慣れてしまい、買い直した後もニュースを見る習慣がすっかり抜けてしまっています。
かわりにスマホからのネットニュースには目を通しているのですが、フィルターバブルやエコーチェンバーといった情報の偏りに、少なからず自分も毒されているなと思う次第です。
AIのアルゴリズムが進化したからこそ、人間がより短絡的になり、自分の興味のあることだけ抜き取られた情報に触れていると、大人でも自分がおかしくなっている判定すらできなくなってしまうものです。まして子どもならなおさらでしょうね。
人間は根本的に興味のない分野は遠ざけがちです。特に年齢を重ねると人間としての行動意欲が少なくなり、考え方も保守的になり、新しいものについていけなくなって、いくところまでいってしまうと若い人たちを攻撃するような「老害」になってしまいます。
丸一塾のidolである私にとっては、年齢云々は関係ないですが…なんせidolなので歳はとりません(笑)
しかし、いろいろな経験値があるからこそ、あまり新しい体験をしなくなっているのも事実。
自分がいまどういった立ち位置にいるのか。これは客観的な視野をもって、相対的な比較をすることでしか見定められません。
例えば北辰テストを受ければ、埼玉県全体での自分の順位や志望する高校の順位もでますよね。数字は嘘をつかないので、分母がより確かであれば、情報もより正確になります。
仮に学校内のテスト順位が良くても、外にいけば大したことはない、またはその逆もありえます。地域的にレベルの上下はありますからね。さらに国立や私立の同学年も混ざればなおさら情報としては正確になります(残念ながら北辰テストは県外私立などの分母はほとんど含まれていませんが)
大人になると、テストで計測できない力も重視され、コミュニケーション能力などというあやふやなもので判断されたり、思考力といったものも出てきます。それらをより高度に数値と結び付けて云々…というのもありますね。
それらの大元は、結局は日常から始まっています。
普段どういった人間とどういった会話をしているのか。どのような情報に触れているのか。その情報の読み取りに間違いはないか。
人の話を聞かず、情報の受け取りをちゃんとしていない。話されたことだけど、自分は聞いていなくて知らないから後でLINEで聞けばいい、教えてもらえないのは情報発信者側の怠慢だ、とでも思って日々を過ごしていれば、必然そういった人間になってしまうのも無理はありません。
そうなると情報発信側も全てを記載した文書で対応するようになる(なぜなら話が通じないから)ので、より複雑で読み取り辛い(しかし記載されているものに間違いはない)ものを与えられ、ますます情報を受け取れない、という風になってしまうわけです。
情報発信者側は責務を果たしているので、文章が読めない人間、読もうとすらしない人間、溜め込んだままのゴミにしている管理能力がない人間が悪いわけですね。
そうなったときに受ける不利益をなぜ人のせいにするのでしょうか?
まずは自分のやってきたことを反省し、そこに間違いがなかったかを全て確認して、そこで初めて他人に対して意見を言うのが正しい人間であると私は思います。
そういう「まともな」感覚を、多くの物知りで愉快な人たちによって与えられて私は生きてきました。そして自分が与えられてきた「まともな」感覚を、塾生たちには与えていきたいです。
新年度もどうぞよろしくお願いいたします。